総桐箪笥製造元-桐里工房 桐蔵-創業明治45年(1912)以来桐に拘り桐に惚れ込み桐と語り合い桐と打ち合ってきた三代続いている職人気質な工房です…。


〒831-0004 福岡県大川市榎津74-3
tel 0944-86-3938
fax 0944-88-2281

2018年12月03日

大川家具の歴史と榎津指物の起こり

明治時代中期[明治22年(1889年)]
ーーー大川木工の(榎津指物)の発展のきっかけーーー
明治22年(1889年)には、 町村合併により大川町が誕生して、木工関係者が町全体の四分の一を占めるほどになりました。
この発展の原因は、塗装方法や木工品製作の基本となる機械の導入と進歩等の技術の発展の他に、材料の木材が十分に確保出来た事と、家具の販売先が広がった事が上げられます。
明治28年、稗田松次郎(武夫の父)とユミ(武夫の母)の間に長男の宇一が、1年後に和一が産まれました。
明治時代後期[明治42年(1909年)]
ー大川指物同業組合が結成されるーー
明治の後期になると榎津指物技術も進歩してより精巧な品物が出来る様になり、家具の製作販売力も伸びて続け、指物師の数も増えていきました。
この頃の大川町の大工には異業種によって呼び名が分けられる様になりました。
先ずは舟大工に屋大工、建具、組子大工、指物大工に宮大工、彫物師、その他に「桶」や「おひつ」等を作る詰物大工、臼や大鉢や器類を作るくり物大工と呼ばれて、殆どが半農半工によって職人達は腕を振るっていました…。
又、この頃に材料問屋が木材の手配をして、木挽き職人を雇って乾燥まで行っていた。
posted by 創業105年の桐里工房 at 22:32 | 日記

大川家具の歴史と榎津指物の起こり

明治時代中期[明治22年(1889年)]
ーーー大川木工の(榎津指物)の発展のきっかけーーー
明治22年(1889年)には、 町村合併により大川町が誕生して、木工関係者が町全体の四分の一を占めるほどになりました。
この発展の原因は、塗装方法や木工品製作の基本となる機械の導入と進歩等の技術の発展の他に、材料の木材が十分に確保出来た事と、家具の販売先が広がった事が上げられます。
明治28年、稗田松次郎(武夫の父)とユミ(武夫の母)の間に長男の宇一が、1年後に和一が産まれました。
明治時代後期[明治42年(1909年)]
ー大川指物同業組合が結成されるーー
明治の後期になると榎津指物技術も進歩してより精巧な品物が出来る様になり、家具の製作販売力も伸びて続け、指物師の数も増えていきました。
この頃の大川町の大工には異業種によって呼び名が分けられる様になりました。
先ずは舟大工に屋大工、建具、組子大工、指物大工に宮大工、彫物師、その他に「桶」や「おひつ」等を作る詰物大工、臼や大鉢や器類を作るくり物大工と呼ばれて、殆どが半農半工によって職人達は腕を振るっていました…。
又、この頃に材料問屋が木材の手配をして、木挽き職人を雇って乾燥まで行っていた。
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大川家具の歴史と榎津指物の起こり

明治時代中期[明治22年(1889年)]
ーーー大川木工の(榎津指物)の発展のきっかけーーー
明治22年(1889年)には、 町村合併により大川町が誕生して、木工関係者が町全体の四分の一を占めるほどになりました。
この発展の原因は、塗装方法や木工品製作の基本となる機械の導入と進歩等の技術の発展の他に、材料の木材が十分に確保出来た事と、家具の販売先が広がった事が上げられます。
明治28年、稗田松次郎(武夫の父)とユミ(武夫の母)の間に長男の宇一が、1年後に和一が産まれました。
明治時代後期[明治42年(1909年)]
ー大川指物同業組合が結成されるーー
明治の後期になると榎津指物技術も進歩してより精巧な品物が出来る様になり、家具の製作販売力も伸びて続け、指物師の数も増えていきました。
この頃の大川町の大工には異業種によって呼び名が分けられる様になりました。
先ずは舟大工に屋大工、建具、組子大工、指物大工に宮大工、彫物師、その他に「桶」や「おひつ」等を作る詰物大工、臼や大鉢や器類を作るくり物大工と呼ばれて、殆どが半農半工によって職人達は腕を振るっていました…。
又、この頃に材料問屋が木材の手配をして、木挽き職人を雇って乾燥まで行っていた。
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大川家具の歴史と榎津指物の起こり

明治時代中期[明治22年(1889年)]
ーーー大川木工の(榎津指物)の発展のきっかけーーー
明治22年(1889年)には、 町村合併により大川町が誕生して、木工関係者が町全体の四分の一を占めるほどになりました。
この発展の原因は、塗装方法や木工品製作の基本となる機械の導入と進歩等の技術の発展の他に、材料の木材が十分に確保出来た事と、家具の販売先が広がった事が上げられます。
明治28年、稗田松次郎(武夫の父)とユミ(武夫の母)の間に長男の宇一が、1年後に和一が産まれました。
明治時代後期[明治42年(1909年)]
ー大川指物同業組合が結成されるーー
明治の後期になると榎津指物技術も進歩してより精巧な品物が出来る様になり、家具の製作販売力も伸びて続け、指物師の数も増えていきました。
この頃の大川町の大工には異業種によって呼び名が分けられる様になりました。
先ずは舟大工に屋大工、建具、組子大工、指物大工に宮大工、彫物師、その他に「桶」や「おひつ」等を作る詰物大工、臼や大鉢や器類を作るくり物大工と呼ばれて、殆どが半農半工によって職人達は腕を振るっていました…。
又、この頃に材料問屋が木材の手配をして、木挽き職人を雇って乾燥まで行っていた。
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大川家具の歴史と榎津指物の起こり

明治時代中期[明治22年(1889年)]
ーーー大川木工の(榎津指物)の発展のきっかけーーー
明治22年(1889年)には、 町村合併により大川町が誕生して、木工関係者が町全体の四分の一を占めるほどになりました。
この発展の原因は、塗装方法や木工品製作の基本となる機械の導入と進歩等の技術の発展の他に、材料の木材が十分に確保出来た事と、家具の販売先が広がった事が上げられます。
明治28年、稗田松次郎(武夫の父)とユミ(武夫の母)の間に長男の宇一が、1年後に和一が産まれました。
明治時代後期[明治42年(1909年)]
ー大川指物同業組合が結成されるーー
明治の後期になると榎津指物技術も進歩してより精巧な品物が出来る様になり、家具の製作販売力も伸びて続け、指物師の数も増えていきました。
この頃の大川町の大工には異業種によって呼び名が分けられる様になりました。
先ずは舟大工に屋大工、建具、組子大工、指物大工に宮大工、彫物師、その他に「桶」や「おひつ」等を作る詰物大工、臼や大鉢や器類を作るくり物大工と呼ばれて、殆どが半農半工によって職人達は腕を振るっていました…。
又、この頃に材料問屋が木材の手配をして、木挽き職人を雇って乾燥まで行っていた。
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大川家具の歴史と榎津指物の起こり

明治時代中期[明治22年(1889年)]
ーーー大川木工の(榎津指物)の発展のきっかけーーー
明治22年(1889年)には、 町村合併により大川町が誕生して、木工関係者が町全体の四分の一を占めるほどになりました。
この発展の原因は、塗装方法や木工品製作の基本となる機械の導入と進歩等の技術の発展の他に、材料の木材が十分に確保出来た事と、家具の販売先が広がった事が上げられます。
明治28年、稗田松次郎(武夫の父)とユミ(武夫の母)の間に長男の宇一が、1年後に和一が産まれました。
明治時代後期[明治42年(1909年)]
ー大川指物同業組合が結成されるーー
明治の後期になると榎津指物技術も進歩してより精巧な品物が出来る様になり、家具の製作販売力も伸びて続け、指物師の数も増えていきました。
この頃の大川町の大工には異業種によって呼び名が分けられる様になりました。
先ずは舟大工に屋大工、建具、組子大工、指物大工に宮大工、彫物師、その他に「桶」や「おひつ」等を作る詰物大工、臼や大鉢や器類を作るくり物大工と呼ばれて、殆どが半農半工によって職人達は腕を振るっていました…。
又、この頃に材料問屋が木材の手配をして、木挽き職人を雇って乾燥まで行っていた。
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明治時代中期[明治22年(1889年)]
ーーー大川木工の(榎津指物)の発展のきっかけーーー
明治22年(1889年)には、 町村合併により大川町が誕生して、木工関係者が町全体の四分の一を占めるほどになりました。
この発展の原因は、塗装方法や木工品製作の基本となる機械の導入と進歩等の技術の発展の他に、材料の木材が十分に確保出来た事と、家具の販売先が広がった事が上げられます。
明治28年、稗田松次郎(武夫の父)とユミ(武夫の母)の間に長男の宇一が、1年後に和一が産まれました。
明治時代後期[明治42年(1909年)]
ー大川指物同業組合が結成されるーー
明治の後期になると榎津指物技術も進歩してより精巧な品物が出来る様になり、家具の製作販売力も伸びて続け、指物師の数も増えていきました。
この頃の大川町の大工には異業種によって呼び名が分けられる様になりました。
先ずは舟大工に屋大工、建具、組子大工、指物大工に宮大工、彫物師、その他に「桶」や「おひつ」等を作る詰物大工、臼や大鉢や器類を作るくり物大工と呼ばれて、殆どが半農半工によって職人達は腕を振るっていました…。
又、この頃に材料問屋が木材の手配をして、木挽き職人を雇って乾燥まで行っていた。
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大川家具の歴史と榎津指物の起こり

明治時代中期[明治22年(1889年)]
ーーー大川木工の(榎津指物)の発展のきっかけーーー
明治22年(1889年)には、 町村合併により大川町が誕生して、木工関係者が町全体の四分の一を占めるほどになりました。
この発展の原因は、塗装方法や木工品製作の基本となる機械の導入と進歩等の技術の発展の他に、材料の木材が十分に確保出来た事と、家具の販売先が広がった事が上げられます。
明治28年、稗田松次郎(武夫の父)とユミ(武夫の母)の間に長男の宇一が、1年後に和一が産まれました。
明治時代後期[明治42年(1909年)]
ー大川指物同業組合が結成されるーー
明治の後期になると榎津指物技術も進歩してより精巧な品物が出来る様になり、家具の製作販売力も伸びて続け、指物師の数も増えていきました。
この頃の大川町の大工には異業種によって呼び名が分けられる様になりました。
先ずは舟大工に屋大工、建具、組子大工、指物大工に宮大工、彫物師、その他に「桶」や「おひつ」等を作る詰物大工、臼や大鉢や器類を作るくり物大工と呼ばれて、殆どが半農半工によって職人達は腕を振るっていました…。
又、この頃に材料問屋が木材の手配をして、木挽き職人を雇って乾燥まで行っていた。
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大川家具の歴史と榎津指物の起こり

明治時代中期[明治22年(1889年)]
ーーー大川木工の(榎津指物)の発展のきっかけーーー
明治22年(1889年)には、 町村合併により大川町が誕生して、木工関係者が町全体の四分の一を占めるほどになりました。
この発展の原因は、塗装方法や木工品製作の基本となる機械の導入と進歩等の技術の発展の他に、材料の木材が十分に確保出来た事と、家具の販売先が広がった事が上げられます。
明治28年、稗田松次郎(武夫の父)とユミ(武夫の母)の間に長男の宇一が、1年後に和一が産まれました。
明治時代後期[明治42年(1909年)]
ー大川指物同業組合が結成されるーー
明治の後期になると榎津指物技術も進歩してより精巧な品物が出来る様になり、家具の製作販売力も伸びて続け、指物師の数も増えていきました。
この頃の大川町の大工には異業種によって呼び名が分けられる様になりました。
先ずは舟大工に屋大工、建具、組子大工、指物大工に宮大工、彫物師、その他に「桶」や「おひつ」等を作る詰物大工、臼や大鉢や器類を作るくり物大工と呼ばれて、殆どが半農半工によって職人達は腕を振るっていました…。
又、この頃に材料問屋が木材の手配をして、木挽き職人を雇って乾燥まで行っていた。
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大川家具の歴史と榎津指物の起こり

明治時代中期[明治22年(1889年)]
ーーー大川木工の(榎津指物)の発展のきっかけーーー


明治22年(1889年)には、 町村合併により大川町が誕生して、木工関係者が町全体の四分の一を占めるほどになりました。
この発展の原因は、塗装方法や木工品製作の基本となる機械の導入と進歩等の技術の発展の他に、材料の木材が十分に確保出来た事と、家具の販売先が広がった事が上げられます。

明治28年、稗田松次郎(武夫の父)とユミ(武夫の母)の間に長男の宇一が、1年後に和一が産まれました。


明治時代後期[明治42年(1909年)]

ー大川指物同業組合が結成されるーー

明治の後期になると榎津指物技術も進歩してより精巧な品物が出来る様になり、家具の製作販売力も伸びて続け、指物師の数も増えていきました。

この頃の大川町の大工には異業種によって呼び名が分けられる様になりました。
先ずは舟大工に屋大工、建具、組子大工、指物大工に宮大工、彫物師、その他に「桶」や「おひつ」等を作る詰物大工、臼や大鉢や器類を作るくり物大工と呼ばれて、殆どが半農半工によって職人達は腕を振るっていました…。

又、この頃に材料問屋が木材の手配をして、木挽き職人を雇って乾燥まで行っていた。

posted by 創業105年の桐里工房 at 22:32 | 日記

大川家具の歴史と榎津指物の起こり

丁寧に仕上げられた、白木のままの生地箪笥は、塗りを施されますが、蝋を塗り込んだ白木仕上げに、拭き漆仕上げ、黒漆塗りを施したものがありました…。特にその後に蒔絵を入れた豪華な仕上げの箪笥もありました…。
桐箪笥(杉と松と桐を併用)にはヤシャブシと砥粉を塗った後に天然蝋の本イボタ蝋で仕上げていました。

又、箪笥の金具は、地元の上巻地区で打たれていた独特の、手打ち金具が使用されていました。
この金具には鉄、銅、真鍮等を用いて、薄いタガネによる細やかな透かし彫りを施すという大川独自の手法を用いて、錺金具や家紋入りの金具が造られていました。特に取り外し式の丁板が開き戸には使われていましたが、他の産地には見られない大川独自の特長ある金具と言えます。

当時、1棹の榎津箪笥を完成させるには、
[1]木挽き職人-----丸太を挽き鋸で製材する。
[2]指物師-----生地仕上げの箪笥を製作する職人(生地師)
[3]塗り師-----漆塗り職人(漆の専門職)と桐箪笥の専門塗り師
[4]錺金具師-----箪笥のデザインによって特注された錺金具を手打ちする職人
[5]金具打ち師-----金具の取り付けを行う職人

この様な大川の伝統の中で、磨き込まれた高度な技術を持った、五業種の職人達がその技術力の合わせる事によって製造された作品が『榎津箪笥』だったのです。
posted by 創業105年の桐里工房 at 20:28 | 日記

大川家具の歴史と榎津指物の起こり

FB_IMG_1541556124975.jpgFB_IMG_1541556044385.jpg20170609_181149.jpg20170414_143904.jpg15407103705165701846056191126169.jpg15407095667091376783430382978470.jpg  『明治時代(明治10年頃)[1877年]』
ーーー榎津箪笥が生まれるーーー


明治時代になると、いよいよ大川独自の形状をした榎津箪笥が登場する。

杉と貴重な桐を主材料に使用して、手作りされた榎津箪笥は、間口巾が一間程ある大型の収納箪笥が主で、堂々とした外観に、板の厚みを出来るだけ厚く仕上げる事で堅牢な造りになっていました。


他の産地には見られない技法で、前蟻組と、後蟻組で、胴板と棚板が組まれており、棚板は縦方向に木目を使い、片面張りと両面張りがありました…。

大川の榎津指物では、引き出しの滑りの良さと完璧な気密性を重視されていた為に、引き出しの底板と棚板の木目方向を同じ方向に使い、引き出しの開閉が滑らかにすべりが良く、吸い付く様な具合に作られ、光も水も箪笥の中に通さない様に製作する事が、高度な技術力を持つ榎津指物師の腕の見せ所でした。

この様な作り方や思考は、他の産地には無く、榎津箪笥(榎津指物)独特の製作技法でした。
この様な独自の技法が用いられていた為に、百年以上前に製作された箪笥でも、大川で製作された物と判断出来ます。

また、昔の各職人には独自の作り方と癖があり、それらの古い箪笥は大川の誰が作った品物であると分かり、また技術力の良し悪しまで分かってしまうのです。

ーーー次に続くーー明治時代No.(1)
posted by 創業105年の桐里工房 at 14:28 | 日記