総桐箪笥製造元-桐里工房 桐蔵-創業明治45年(1912)以来桐に拘り桐に惚れ込み桐と語り合い桐と打ち合ってきた三代続いている職人気質な工房です…。


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2018年12月11日

大川家具の歴史[昭和時代]No6終戦後編

 ーーー座の生活から、
                             椅子の暮らしへーーー

  畳の間が少なくなり、ダイニングキッチンやリビングルームに変わる事で、家具のデザインは一変して行きます……。

  ◎お茶の間のちゃぶ台はーーーダイニン                            グテーブルへと、
  ◎水屋はーーーー洋風食器棚へ、
  ◎長持ちはーー夜具入れ、洋服箪笥へ、
  ◎和茶棚や飾り棚はー洋サイドボード
  ◎裁縫台はーーーーミシンへ
  ◎座の鏡台はーーーードレッサーへ
  ◎嫁入り道具はー洋風の婚礼セットへ       3点セット(1)和ダンス
                       (2)昇りタンス
                       (3)洋服箪笥
   他に鏡台(ドレッサー)、下駄箱


            
  
                                    
posted by 創業105年の桐里工房 at 20:57 | 日記

大川家具の歴史[昭和時代]戦後編No.5

DSC_1599.JPG昭和25年位に発売された三輪軽トラダイハツミゼット
FB_IMG_1544003790083-d83aa.jpg昭和27年、筑後川での筏流しが夜明けダムの建設によって終わりとなる。
DSC_0724.JPG戦後の桐箪笥

ーー第二次世界大戦後の異常な大川ー

  戦争での敗戦は、日本の住宅や設備、文化や人間の心までも、全てを破壊して終結したが、全国の戦災復興や炭鉱住宅等の需要がいっせいに始まり、大川には異常な木工ブームが、訪れる事になる。

  敗戦国のどん底から、這い上がる為には、日本人が平和的な経済立国を再構築するための夢を描く事が必要でした。
    全ての住宅や家具は破壊され何も無い状態ですので、誰もが貧しく取敢えずの応急措置を至急行わないといけない状況でした……。
   住宅は、質はあまり重視しない、間に合わせの文化住宅や集合住宅が、普及して、家具も今までの純和風ではなくて、洋風的な安価な家具が必要とされる、異常な時代背景の中で、大川に与えられた使命は量産家具の製作でした。
   大川の家具作りは、一本でも多く作る事が優先されましたので、作れば作るだけ、まとめて売れて行きました。

     日本の戦災復興は目覚まし行きました早さで進み、やがては高度成長期を向かえる事になります……。

  昭和24年(1949年)大川は国の指定の『重要木工集団地 』に指定され(旭川、高崎、東京、荒川、新潟の加茂、和歌山と共に)、現在の産業の基盤が確立されました。


   


posted by 創業105年の桐里工房 at 18:53 | 日記

2018年12月10日

大川家具の歴史[昭和時代]No.4

前項からの続きーーー
   これらの部品(主翼、尾翼)、軍の強度検査で『木製飛行機の強度で日本新記録』と評価され、ここでも大川の木工技術の高さが日本一と軍需省から労いの賞状が届いた。

   工場は主翼班、尾翼班等、10班に分かれて作業をする班制度を取っていた。大川の木工技術者や大川工業学校(後に筑西工業学校とも呼ばれていた)の学生などや女性も加わり常時700人がいて、この中に桐里工房の従業員であった、故黒田氏がこの事業に大川工業学校の生徒として動員されていたと本人から聞いていました。

  この他に、戦時中の大川には、大川航空(株)、古賀航空機製作所、八大航空機製作所、勤労者航空機製作所など、5つの飛行機製作所がありました…。大川の木工技術者を亡くさないためと云う事も考えられます。

    この飛行機の製作によって考案された、各班に分かれて作業を行う生産方式は、戦後の量産家具の製作に取り入れられます。

   大川の木工関係者のたくましさが
感じられます……。


posted by 創業105年の桐里工房 at 18:03 | 日記

2018年12月09日

大川家具の歴史[昭和時代]No.3

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ーーーー戦時中の大川ーーー
『大川で木製飛行機の製作』
          [品質日本一]軍の評価

     ーー練習機『白菊』の主翼製作ーー

大川で戦闘機の木製飛行機を製作していたのは、大川市酒見中原にあった「旭航空機製作所」は1943年(昭18年)12月に設立された。
   場所は、中原公民館の近くにあり、巨大な平屋建物が密集していた。
地元の材木商が、戦況報告会で飛行機が足りない事を知り、資本を投じて設立した……。

   当時は成人男性の軍需工場への徴用が多く、大川に木工飛行機の工場を作る事は大川の木工技術者の「徴用逃れ」との側面もあったとみられる。

    この工場で作られた部品(主翼と尾翼)は春日市の九州飛行機製作所にて機体を組立てていた。
   1944年の3月に生産を初めて、わずか15日の3月15日には初号機に用いる主翼等が完成した……。

posted by 創業105年の桐里工房 at 22:30 | 日記

大川家具の歴史[昭和時代]No.2


getImage-fecc5.jpeg筑後川昇開橋と佐賀線[1935年(昭和10年)]に開通DSC_0727.JPGDSC_0756.JPG
ーーー前項からの続きーーー

    大正時代から昭和の戦前迄には桐箪笥の職人達と、雑木箪笥(楠や欅、栗、桜、楢、セン壇等の広葉樹)の職人達が、手作りで製作をしていました……。

   その職人の六割以上は桐箪笥の製作に腕を競いあっていました。
    嫁入り道具は箪笥長持ち唄と一緒に、多くの花嫁さんが、桐箪笥や長持ちと共に大切な婚礼道具として嫁入り先に運ばれました。大川の婚礼家具はこんな素朴な習慣から生まれたのです。

  ーーー筑後川昇開橋の完成ーーー

      [1935年(昭和10年)]開通

    東洋一と言われ、日本最古の昇降する可動式の筑後川昇開橋が日本の技術の粋を集めて昭和10年に完成しました…。
     同時に国鉄鹿児島本線(瀬高駅)から、長崎本線(佐賀駅)を結ぶ短絡腺(総延長24k)で『佐賀腺』として開通した……。
     大川市内には筑後若津駅、そして筑後大川駅、東大川駅の三ヵ所の国鉄の駅があり、米や木材、そして大川の家具の輸送等に利便性が向上し、街の発展に大きく寄与しました…。

    戦後の車の普及と共に、国鉄が現在のJRとして民営化された昭和62年(1987年)に佐賀腺は廃線となり、昇開橋はその役割を静かに終えた。

    現在は国指定重要文化財(平成15年指定)となって、佐賀市と大川市が観光の為に保存公開されています…。

   筑後大川駅の開業は昇開橋と共に賑わい、大川のシンボルになっていました…。しかし4年前の満州事変をきっかけに日中戦争[1937年(昭和12年)〜1945年(昭和20年)]が勃発して、長期化に伴い1938年(昭和13年)に国家総動員法が施行され、国民徴用令も[1939年(昭和14年)]に発令され、日本は太平洋戦争へと(1934年〜)宣戦布告して、第二次世界大戦の勃発につながりました。

    この為大川の家具の生産は、中断する事になります……。

     この様な状況の中、大川の木工関係者は後継者育成の為に、三潴郡大川町向町に、木工の後取り教育として大川工業学校を設立させます。
  大川の木工の為に終戦後の大川の家具の生産再開を考えての事でした。

   戦中の大川の木工所や学校は軍需工場となり、木製の飛行機を製作していました…。又、造船所では、路面電車等を木製で作らせていた。

      [1943年(昭和18年)]
稗田木工所の2代目稗田武夫に召集令状が届きました。
   34歳で、1年数ヶ月の間、満州へ出兵するも、終戦の昭和20年には無事に帰国する。

posted by 創業105年の桐里工房 at 20:11 | 日記